3月11日 私のストーリー

 東日本大震災から10年。そういう節目でいろいろなところで特集が組まれたり、振り返りをしている人が多い。

私もそれにつられるように、あの日のこと、あの頃のことを思い出し、考えたことを書いておこうと思いました。

2008年から2011年の仕事のこと

私は当時、東京の浜田山というところに住んでいましたが、あの日は、仕事で横浜にいました。

2011年は私にとって思い出深い年です。仕事で携わっていた新ブランドの発表となった年だからです。2008年からずっと準備をしてきた事業でした。

当時、私が勤めていた企業は、主幹事業が好調だったけれど、将来的な成長戦略の中で、新規事業を始めることが決定し、私はその仕事にアサインされました。

外国資本の会社の本社が決めた決定。日本では、主幹事業がうまくいっていたし、うまくいくかどうか未知の新規事業に関わりたい人はあまりいませんでした。

この事業が立ち上がる半年くらい前、私は、この前に所属していた部門で、あまり良い人間関係に恵まれなかったということもあって、長く会社を休んでいました。だから、この新規事業部にいくか、会社を辞めるか、どちらかを選ばなくてはならなくて、私はあまり乗り気がしなかったけれど、その仕事をやることにしました。

2008年から準備が始まって、7月に子会社を設立。あまり手伝ってくれる人もいなかったので、社長と、事業部長と私と3人でひっそりと仕事をしていました。2009年にスタートする予定だった事業は、予定が先送りになり、2011年の2月の終わりにやっと第一号店がオープンし、そのすぐ後にこの東日本大震災の日を迎えました。

2011年3月11日 横浜

2011年3月11日午後、私は横浜にいました。横浜の店舗でイベントをやっていて、その手伝いに行っていました。

突然、大きな揺れを感じ、店舗はパニックになりました。お客様も働く人も若い女性が多いショッピングセンターの中で、となりのテナントで働く女の子たちは泣いていました。

私は一瞬、何が起きているのかわからず、でも、ただ事ではないことが起きた、ということは理解できていて、自分がこの後、何をしなければいけないか、を瞬時に考える必要があったのに、一瞬思考停止状態になっていました。

そのとき、ショップスタッフの一人が、ショッピング用のかごを、頭を保護するように渡していました。彼女はすごく冷静で、ほかのスタッフも落ち着いて行動していました。

当時、店舗は3店舗しかなく、この事業の店舗で仕事のために、新しく採用となったり、ほかの部署から異動してきてくれた人などは24名でした。2月に初めて会ったばかりのひとたちだったので、まだあまり気心が知れていないメンバーだったのですが、パニックの中落ち着いてやるべきことを見つけている彼女たちをみて、優秀だな。いい人がメンバーになってくれてよかった。と場違いな感想を持っていたことを覚えています。

私はこのかごを配っていた彼女と、この後、何年にもわたって、仕事のことでいろいろ話し合いました。彼女はとても優秀だったのに、仕事に対してモチベーションを持てず、周りにいい影響を与えていない、と感じていた私は何度も、彼女と話し合い、彼女の昇格の機会を白紙に戻す、ということもありました。

2020年、私が会社を辞めるとき、彼女はもう立派な管理者になっていました。2011年の時点であれだけの優秀さを見抜いていながら、ここまで来るのにすごく時間をかけてしまった。彼女にどうしたらもっと、活き活きと働いてもらうことができたのか。今でも私の心に引っかかってしまっていることです。

地震、その直後

地震の直後、私たちはいったん、そのショッピングセンターから退去させられ、外に出ました。電車が動いておらず、何時間か様子をみていましたが、あまりにも寒かったので、商業施設に戻りました。中に入れていただくことができ、それから夜中に私鉄が動き始めるまでそこにいることができました。

ほかの人たちの話を聞くと、私たちはラッキーだったのだと思います。テレビをみて情報を得ることもできたし、成城石井の方が、食料を配ってくださって、食べるもの、飲むものも確保できていました。

店舗から締め出されてしまったお客様たちは、あの寒さのなか、本当に大変だったと思います。おしゃれをしてお買い物に来た人たちが、スニーカーではない靴を履いて、徒歩で家に帰るのは大変だったことでしょう。阪神大震災の時には、ダイエーは早朝の地震のあと8時には店舗を開けたといいます。想定外のことが起きたときに、どういう決断をするのか、行動するのかが問われるのだということを、後に振り返って考えました。

深夜に動き始めた電車に乗って、家に着いたのは、午前3時くらいだったように記憶してます。横浜以外の店舗のスタッフと連絡が取れはじめ、多くの人が帰れずに、水も食料もなく、そこで寝泊まりしていることがわかりました。

家ではインターネットに接続できていたので、Twitterの情報から、近隣でオープンしているお店や、飲食店がないかどうか、検索して随時、彼女たちに連絡しました。私はとても心配していたのですが、全員ものすごく冷静で、しっかりしていました。私は再び、ものすごくよい人達が、メンバーになってくれたことを思い知りました。

地震から1か月

地震から1か月の間には、いろいろなことがありました。スーパーでの買い物が不便になったり、計画停電があったりしました。

仕事では、日本のことを心配して、世界中のメンバーがメッセージをくれました。

東北の悲惨な状況が報道され続け、そのたびに、私は不謹慎にも、東北に店舗がなくてよかったと思いました。これから、全国に店舗が増えていくたびに、こういう心配ごとからは逃れられないのだ。という決意も生まれました。

大きな自然災害の前では人は弱いもの。私ができることはあまりないけれど、とにかく、スタッフの安全確認だけはできるように。とチームの体制を整えました。

色々な人がいろいろなことを言っていた2011年

未曾有の出来事。あの時盛んに使われた言葉です。当時、いろいろな人が、これは、大恐慌や、産業革命と同じような「変革期」であることを訴えていて、私はどうだろう。そうなのかな。と半信半疑でした。

その10年後に疫病が世界中を襲うことは、その当時、考えられていませんでした。東日本大震災ではなく、今こそが、時代の変革期であるのかどうかは、まだ先にならないとわかりません。

まとめ

2011年3月11日。あの日どこで何をしていたか。人それぞれに、ストーリーがあるのでしょう。私は自分が直接的な被害を受けていないので、思い出すのは、あの、かごの彼女のことです。

スタートしたばかり。ずっと大事に準備してい来た事業が、大きな地震で計画通りいかない。最初からうまくいかない。

がっかりしたか、というとそうでもなくて、私はあの冷静な彼女たちをみて、私の見る目は間違っていない。彼女たちはすごい。きっとうまくいく。そう思っていました。

あれから10年経ったんですね。

今日はめずらしく、朝のブログになりました。今日も素晴らしい朝が来たことに感謝しようと思います。

今日もよい1日になりますように。

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