父の一周忌 父のこと、そして私のこと。

 2021年6月19日に父の一周忌をしました。私の父は、私がいよいよADDressでの生活を始めようとしていたその1週間前に突然亡くなりました。

すでに90歳近い父だったので、悲観するような死ではありません。でも、ケガで入院し、快方に向かっていると聞いていたので、父の死を知らせる突然のメッセージに驚きました。

父が亡くなってから1年。父のことを書いておこうと思います。

私が小さいころの父

サムネイルの写真は私と父です。着物を着ているのでお正月だったのでしょうか。父親にとっての娘は多分、かわいい存在だったでしょうし、私も父のことが好きでした。誰かが父に、「お嬢さんのことがかわいくて仕方ないでしょう」と言った時に「そうなんですよ。本当にかわいくて仕方がない」と言っていたことを覚えています。

父は仕事が終わったら寄り道をせずに、毎日まっすぐ家に帰ってきました。小学生のころの夏、私と妹と二人で河原の土手で、父が帰るのを遊びながら待っていて、橋の遠くの方に小さなその姿を見つけたら走って父のところへ行きました。

子供心に私は自分の父を「イケメン」だと思っていました。他の親戚のおじさんや、友達のお父さんと比べても、私のお父さんはかっこいい。そう思っていました。

大人になってから伯母が、「あなたのお母さんは、私は美しい娘を生みたいから義治(私の父)と結婚したって言ってたのよ。」というのを聞いたことがあります。母も父のことを「イケメン」だと思っていたようです。

家族の複雑な関係 

私には妹がいるので、家族は父、母、私、妹の4人です。家の中で男一人だった父は、女性3人に配慮しながら暮らしていたように思います。家族旅行に行くときには、父がいつもほとんどの荷物を持って、私たちは手ぶらで出かけていました。「ジェントルマン」のような父には、きっと彼の理想とする家庭があり、それを演じていたようにも思います。

その後、私と妹は思春期を迎え、父とは距離ができました。私の両親は、特別仲がいいわけではない、(だからと言ってすごく険悪なわけでもない)よくある、普通の夫婦だったように思います。

だんだんこの頃から、父は私にとって単なる「イケメン」ではなくなっていきます。それは私が大人になっていくための自然な過程だったのだと思います。

父から離れていく娘たち。特別に仲がいいわけでもない妻。そして、何より家庭を大切にしたかった父。

この辺りから、父の中で何かが変わったし、私の中でも何かが変わりました。

私はずいぶんと大人になってから、思うところあって、両親と距離を置くようになりました。そしてそれは、結果として、お互いのためによかったと私は信じています。

繊細な父、優しい父

家族と離れて暮らすようになってから、父のことを客観的に考えるようになりました。小さなころは私のことを守ってくれる存在だと思っていた父は、実は強い男の人ではなかった。すごく繊細な、弱い人だったと思います。

自分の要望を口に出して言うことをつい遠慮してしまう。他の人の心配事を、その当人よりも心配してしまう。開けっ放しの扉があると、その扉に誰かが頭をぶつけることを想像して、不安になってしまうような人。

人に対して優しくありたいと思いながらも、自分の気持ちで心がいっぱいになってしまう父。私が大人になってからの父は、常に不機嫌な様子だったように記憶しています。

賢い父、お酒が好きな父、そして臆病な父

私の父は英語が話せたということもあり、欧米の自然や文化に関心が高い人でした。私も妹も、その影響を受けました。父が好きだったテレビ番組は 「兼高かおる世界の旅」や、「野生の王国」でよく一緒に番組を観ました。

父はウイスキーを好んで飲みましたが、家族の中にお酒につきあう者がいなかったので、甥や娘婿とよくお酒を飲んでいました。若いころは強かったお酒も、年齢とともに弱くなり、だんだん酔っぱらうようになっていきました。

私の従弟たちは、父との思い出を語るとき、「叔父貴はウィスキーは、ちゃんと磨いたグラスで飲まないと。といつも言っていた」などと話すことが多く、父とウィスキーというのは周囲の人の思い出ではセットになっていたようです。私は大人になってから、頻繁に海外に出ていたので、父へのおみやげにウィスキーを買って帰りました。

「お父さんもどこかへ行ったらいいのに」

私はよくそんな風に思っていましたが、父は、知らない場所へ行くことへの不安、そして経済的な不安のためか、実際に海外旅行に出かけることはありませんでした。私の家は、裕福ではないものの、お金に困っていた家ではなかったので、父が生涯のうちに、数回海外旅行に行けるくらいの余裕はあったはずです。

でも父は出かけることはありませんでした。

臆病で繊細な父は、見知らぬ国に思いを馳せながら、実際にはずっと家にいました。そして、たまに、少しの外出をしたとしても、家に帰るなり、「家が一番いいな」と言っていました。

私は父と似ている でも私は父の様には生きない

私は自分の中に、父の繊細さ、弱さ、臆病さがあることを認めざるを得ません。一方で私は母の血も引いていますので、我儘さや、傲慢さも持ち合わせていて、バランスされ、なんとか世の中で生きていける性質になっていると思います。

私の中の「父」の部分が顔を出すと、新しいことを始めることに勇気が要ります。一度決めた後も「やっぱりやめようかなあ」と、ぐずぐずとし、直前までブルーな気持ちがなくならない。

でも、そういう時にはなんとなく父のことが頭に浮かんで、やっぱりやろう。一度の人生だ。行ってみよう。やってみよう。と思うのです。

世界中のいろんなところに旅行し、働いてみたかった仕事にチャレンジし、今は会社を辞めてしまい、家も失くし、多拠点生活というライフスタイルを選びました。

「いい夢見てね」と毎晩言った父

ブログの最後に、いつも「今夜もよい夢をみられますように」と書いています。多拠点生活を始める直前に父が亡くなったので、なんとなく父のことが頭にあり、何か思い出になることを残したいなと思いました。

私たちが幼いころ、父は私と妹に毎晩、「いい夢見てね」と言いました。私たちは明るく「OK!」と敬礼サインをして、布団に入りました。私たちがまだ、平和に暮らしていた頃の思い出です。

今思えば、父は夜、あまり良い夢を見ることができていなかったのかもしれないなと思います。

まとめ

私は、全然親孝行な娘ではなかったけれど、一つだけ親孝行を誇るとすれば、私自身がとても幸せだということです。親にもらった元気な身体と心を使って人生を存分に楽しんでいます。

お父さん、無事に天国へ行けましたか?私が幸せに生きているのが見えますか?いいでしょう。私のこと羨ましいでしょ。お父さんも幸せにね。お父さんもいい夢見てね。

今夜もよい夢を見られますように。

私の思い
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自由な生活

コメント

  1. お父様はきっと一緒に旅のお供をされておられるのですね。
    生きている時間こそが、振り返ると夢のようであったと。
    いい夢を見られるのは生きていられるからこそだと。

    • めーさん、こんにちは。父が一緒に旅をしている。そうかもしれませんね。
      父はよく、私に「こころ穏やかにね」とも言っていました。
      きっと自分の望んでいたこと、難しかったことを、叶えたかったのでしょうね。
      私は心穏やかに、そしていい夢をみて(というか今は夢も見ずにぐっすりと)暮らしています。

  2. Emilyさん

    初コメントです。
    お父様との記憶、素敵だなと思いながら読まさせてもらいました。

    何より、いまEmilyさんが自分自身幸せと感じていることが
    お父様にとっては、一番幸せだと思います。

    • ゆうゆうさん、こんにちは。コメントありがとうございます!
      人と人との関係は、これが正解、というものがないもので、自分でどこか、気持ちの落としどころを見つける必要がありました。
      私が幸せなことが一番の親孝行。それが一番、ピッタリくる感じがしています。
      共感してくださってうれしいです。

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